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<<   作成日時 : 2005/03/30 19:07   >>

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 手元に一冊の同窓会名簿がある。 昭和45年発行の外地の某(日本人)国民学校の卒業生名簿である。開いてみると明治36年開校の この学校の名簿は敗戦の年の昭和20年で閉められている。 後に続く卒業生はもういない。 戦争に負けるとは、こう云うコトも含んでいる...。

 外地では、昭和20年春に沖縄が陥落すると 学校の子供たちの間でも日本は間もなく降伏する、と云う噂と動揺が広まっていた。 外地に住むものにとって、母国が戦争に負けると云うコトは恐怖そのものである。 幸い外地には空爆も配給も無かったが、米軍のグラマン艦載機の編隊が頻繁に低空で飛び来る様になった或る日、戦争は終った。 当然ながら、ポツダム宣言に従い現地人は自分達で独立国家を作るコトになり、邦人は日本(内地)へ帰されるコトになった。 街では武装解除された旧日本兵が丸腰の状態でトラックで巡回して治安維持に当たっていたが、これも或る日を境に米軍にとって替わられた。

 ...と或る日、突然 我が家にカービン銃を構えた米軍MPが二人、土足のままで座敷に上がってきた。 家族は一ヶ所に集められた。 父が Hold-up の意思表示をして、武器を隠し持っていない旨を告げると直ぐに出て行った。 その間3分位だったろうか。 米軍の後に続いてゾロゾロと5〜6人の現地人も上がり込んできた、アッと言う間だったが彼等に置時計を持って行かれた。 敗戦国民は無抵抗だというのを見越しての行動だった。 父は米軍による査察を事前に察知していたのだろう、家にあった軍刀類は全て、家の前の防空壕の地下へ埋めてしまっていた。 隣の家は海軍武官のご家庭だったが、査察時に恩賜の記念品まで持ち去られたと嘆いておられた。 日本人の家庭はことごとく、敵国人としての査察を受けたが、その後は不気味なほど何も起こらなかった。

 間もなく、我が家でも日本への帰還の準備が始まる。 両親は家財を纏めて荷造りをすると鉄道貨物で日本の親戚の家宛に託送した。 しかし外地の邦人を取巻く状況は次第に悪い方へと向っていた様で、当時 難民からの情報により朝鮮半島北部や満州方面の邦人は迫害により大変な事になっているとの噂が広まっていた。 父は鉄道局の厚生部に勤務していた関係で、満州や朝鮮半島の38度線以北から 「着の身 着のまま」の状態で貨車で移送されてくる日本人の難民救済に当っていた。 その為に父は家族と別れて只一人現地に残ることになる。... 海外からの日本人の引き揚げは、ポツダム宣言の第 6条に従うもので当時の邦人、兵士 約600万人がこれに応じた。

 父を除く我々家族(母親、弟、妹) は、4人で混乱と不穏の中、日本へと引き揚げるコトに...。釜山港への入口で手を振る父と別れた。 別れ際に父から、"もし皆とはぐれて一人になってしまった時は人の食べ物を奪ってでも生き抜いて、未だ見ぬ日本の本籍まで行く様に" と云われた。 当時まだ7才、5才だった弟や妹たちは、まだ混乱の意味が分からなかったと思う。幸い、最悪の状態には至らなかったが、緊急時には、食べ物を奪ってでもという価値観の逆転には子供ながらに戸惑ったものだ。 ...いよいよ乗船が始まる、と又デッキの手前で米兵による荷物の検問があった。見ると彼等の両腕には十数個もの腕時計が光っていた、検問をしながら日本人の貴重品を奪い取っているのだ。 それは照明に照らされて、子供の目にも異様な光景に映ったのをよく覚えている。 やがて出航⇒ 船室内では、疲れと緊張感からの解放とで船客は皆、黙りグッタリとしていた。

 よく朝、仙崎沖に着く。 機雷が敷設されているので門司などの大きな港へは接岸出来ないからだ。 引揚げ船名は関釜連絡線のコンロン丸?...だったと記憶している。 ここで小型のポンポン船に乗り換えて柳井港? へ、更に汽車に乗り換え東京方面へと向う。 途中、睡眠中に起こされて記憶しているのは二ヶ所、原爆投下後 間もない、一面焼け野原の広島市の景色と、それから富士山が見えたときだった。 (広島駅、被爆の2日後の8月8日には、もう山陽本線は修復され開通していた。驚異である)

 仙崎⇒ 柳井⇒ 東京⇒ 父親の実家である本籍地までの三日間の長い旅であった。 電話も電報もない時代、最寄の駅から父の実家まで、桑畑の延々と続く無人の田舎道は長かった。 母親は幼少の妹を背負い、途中 親切な人に荷物を持って貰ったりしながら夕方、着の身 着のままの状態で父の長兄の家に辿り着いた。 敗戦の混乱で、連絡手段の無い時代ではあったが、予告無くいきなり親子四人が飛び込んできたのだから長兄の家族もビックリされた事と思う。 それから父が遅れて帰国するまでの一年ほどの間、この家の一角に住まわせてもらう事になる。 現在があるのも、長兄ご家族に大変お世話になった結果と我々一同感謝している次第である。

 余談だが、外地から貨車で送った家の荷物は既に、半世紀余を経た今も未だ届いていない。 途中で略奪か没収に遭ったに違いない。 この件に就いては、今もって日本政府からも現地の政府からも謝罪の一言も無い。 この国は、敗戦兵には軍人恩給を給付しながら、民間人には何らの補償をもしていない。 敗戦後、占領軍のマッカーサーは、日本は4等国だ、日本人の精神年齢は12才程度だ、と言い放ったが、今もってこの国の政府も役所も当時の侭で、変っていない様だ。

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