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zoom RSS 描かれた富士

<<   作成日時 : 2015/04/15 23:09   >>

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 富士山の美の特徴は、独立峰特有の山体の美と噴火跡、積雪にみる超絶した景観にある。 世界にはキリマンジャロを始め、マヨン (比)、エレバス (南極)等々が、国内には 利尻岳、燧岳、伯耆の大山、開聞岳など数多の独立峰があるが、富士山程に敬われ、且つ親しまれてきた山は無い。 ... この国に文化が根付いて以来、富士は時代を超えて 歌に、俳句・和歌に、小説・物語に、絵画にと歌われ描かれ続けててきた。 ... 私自身、富士山の見えない県の小学校を出たが、図工の時間には誰もがチャンと富士山の絵を描き、音楽の時間には唱歌 「富士の山」を歌って育った。

 大正時代の作家 大町桂月は、1921年 (T10年) の紀行文 「層雲峡から大雪山へ」 の著書の中で、” 富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って...、” と書いが、奈良時代から江戸時代半ばまでの文人は、自らが山に登るコトはなく、遠方から見た富士を題材に詠い、且つ描いてきた。 その点,、富士の頂上を極めた山岳作家 新田次郎の作品 「富士山頂」 や「芙蓉の人」 は、内容がリアルで希有の書である。 .... 最古の歌集の万葉集には、全 4500首のうち富士山を詠んだ歌が10首前後ある。 その中の秀歌は勿論、山部赤人の 「 田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ 不尽の高嶺に雪は降りける 」 であるが、 他にも富士の噴煙を詠んだ歌が二首、 「 ... の燃えつつかあらむ 」 「 ... もゆる煙なりけり 」 が載る。 地学的に見れば、この歌により万葉集が書かれた 8世紀後半には、富士山が噴煙を上げて活動していたコトが分かるが、実はこの二首は恋歌で、自らの熱く燃える想いを富士の噴煙に肖って詠んだ句である。

 さて、外国人は富士をどの様に見ていたのか? ... 初代の英国公使オールコックは、1860年 (万延元年) に外国人として初めて富士山に登った。 後年著した 「大君の都」 の中で、彼は ” 富士は江戸から 80マイルも離れた山だが、夕日が山の後ろに沈む時には 山体が金色の衝立の上に浮き出した様に映え、早朝には朝日の光が雪に反射して円錐形の山の形が輝いて見える ” と風景を絶賛している。 また、1636年 (寛永13年) に家光の将軍就任祝いに来日した朝鮮通信使は、駿河から江戸に入るまで連日富士を眺めながら旅を続けた。 副使の金世渫は、... ” 富士は切り立つさまで屹立し突コツとして空の半分を占める。 白雲が常に中腹の下に起こり 空に浮かんで天を覆う ” と漢詩を詠み、富士は堂々たる名山、一国の鎮めともなる中心の山であり、銀の山、玉の峰と湛えた。

 富士山は昔から縁起の良さでも代表格だった。 例えば、正月の夢と云えば先ず富士山、一富士二鷹三茄子は全国的だが、江戸には初夢を詠んだ川柳 「 駒込は一富士・二鷹・三茄子」 の句があった、 その意味は、江戸駒込の富士神社を第一とし、その近くに在る鷹匠の屋敷が第二で、第三は駒込名産の茄子を指した。 因みに第三に続いて 四は扇、五煙草、六座頭...、と句は長々と続く。 さて、 初夢を云々する風習などは 鎌倉時代から続く墳飯ものだが、初夢を見る日を 元旦〜2日迄としたのは明治の改暦以降のコトで、江戸時代迄は初夢を見る日は 旧暦の節分と立春の日の2日間 だった。 有難い日なんて所詮は人が勝手に決めたモノでしかない。

 御坂峠 (標高1300m) は河口湖の北方 4q にある、峠から見る富士は絶景で文政年間には北斎も訪れた。 甲府と富士吉田を結ぶ御坂峠越えは、昔の鎌倉往還道でカーブが多く時間がかかったが 昭和 42年に新隧道が開通してから交通は便利になった。 その一方で、時代から取り残された形の峠は、名前も旧御坂峠と改められてしまった。 ... 1938年 (S13年)、太宰治は師匠の井伏鱒二と二人で この旧峠道の天下茶屋に滞在して 「富岳百景 」 を書き上げた。 彼は 御坂峠と河口湖間を走るバスに乗り、路傍に咲く月見草の花の話をヒントに後日 あの有名な 「 富士には、月見草がよく似合ふ 」 の句を生み出した。 ... 後年、太宰文学の研究者某は、月見草の句と花の開花時間帯のズレに疑問を呈しているが、「私小説」 などは元々虚構を組み合わせて創り上げたもの、普通の読者には時間帯のズレ等は小事に過ぎない。

 太宰治は著書 「富岳百景」 1939年(S14年) の冒頭で、いきなり富士山々頂の 「頂角」 の話を始める。 ... 曰く、「富士の頂角、広重の富士は 85度、文晁の富士も 84度位、けれども陸軍の実測図によって東西及び南北の断面図を作ってみた。 東西断面の頂角は 124度、南北は 117度である。 広重、文晁に限らず大抵の絵の富士は鋭角であるが、実際の富士は鈍角 ... 、決して秀抜のすらりと高い山ではない... 」 と。 私も実際に分度器を当てて測って見たが、実際の富士は120度、広重の絵の富士は 90度、それに北斎は 80度だった。 この記事について 「富士山の文学」 の著者、久保田淳は、この頂角の叙述は、石原初太郎著 ”富士山の自然界” 1925年 (T14年) から引用したものと述べている。 ... 画家は描いた絵を美しく見せる為に、自然界の題材をデフォメライズして表現する。 頂角の傾斜が実際とかけ離れていても、 画紙に凝縮された富士の姿は至高の芸術作品であるに違いはない。 ( 頂角 ⇒ 三角形の上の角度のコト )

 参考書 :
久保田淳    富士山の文学  角川学芸出版
太宰・長谷部共著  富士には月見草  新潮社  

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