ぬるでんぼう

アクセスカウンタ

zoom RSS 見えてきた古代日本

<<   作成日時 : 2015/10/31 12:07   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 日本の古代史を東アジアとの視点から見てみようと 2015年 「 発見・検証・日本の古代 」 のシンポジウムが福岡、大阪、東京で催され、第一線の研究者による講演と討論があった (角川文化振興財団・朝日新聞社共催)。 神奈川県でも川崎市の市民ミュージアムが 2012年に前方後円墳と確認された蟹ヶ谷古墳を地元の専修大学・日本大学と提携して 5ヵ年計画で発掘調査中であり、2015年には 「古鏡 kokyo 」 の企画展を催し 最前線の研究者を招いて講演会を開催する等、地方でも古代史に関する関心は高い。 ... この様な催しは、長い間 謎だった 3世紀から 6〜7 世紀にかけての古代日本の成立過程を知る絶好のチャンスと捉えたい。

 今はあまり語られないが、日本の歴史学は1945年の敗戦を機に 180度転換した。 敗戦前の歴史学は、神話を配した天皇制国家主義に基づく学問で、学校教育の場でも国民強化の手段として忠君愛国を標榜した歴史教科書が使われていた。 因みに、国定の日本史教科書の第一章は天照大神に始まる神代の描写と古代天皇家に係る話で、この流れは明治 36年から昭和 20年まで 40年間続いた。 ... そんな日本の歴史学は、敗戦を機にポツダム宣言に基づき GHQ (占領軍) の命令で 180度転換した内容に改められた。 大要、@ 歴史事象は客観的・科学的に扱うコト、A 国家主義・軍国主義的な内容は排除するコトが大原則で、日本はそれに従った。 同時に、国会は戦前教育の基本理念だった教育勅語の失効を決議している。 ... 現在の歴史学は神話に基づく歴史観から解放され、科学的・客観的方法で研究され書かれた学問なのである。

 映画監督の篠田正浩さんは今回のシンポ... の特別講演で、... 戦争が終わって 「魏志倭人伝」 の存在を知り卑弥呼から始まる日本の本当の歴史を知って驚いた、20世紀になって原子爆弾が作られる時代になっても日本人は敗戦まで神話を信じていた、と述懐した。 ... 戦後暫らくして、新しい卑弥呼像の下で邪馬台国論争が起こり、騎馬民族征服王朝説が発表されて、国民の間で漸く自由な歴史論争が始まる。 ... 見えてきた古代の日本は、3世紀の後半、弥生時代が終ると共に 卑弥呼の時代は幕を閉じ、古墳時代に入る、ここで最初に築かれたのが奈良県桜井市の箸墓古墳 (はしはか古墳) だった。 この時代は、首長連合のヤマト政権のもと 統治体制は 前方後円墳の築造を通じて全国に広がり、この体制は 6〜7 世紀の初めまで続く。 その後の日本は、新しく政治体制を整えた推古朝のもとで、大陸の隋や唐の台頭を見据えながら天皇制を擁す中央集権主義国家へと新たな道を歩み始める。

 前方後円墳は、規模は兎も角 墳丘の外観・埋葬手法・副葬品の全てが全国的にほぼ画一なのが特徴である。 北は岩手県から南は九州に至るまで全国に散在する墳丘の数は、前方後円墳・円墳・方墳 を合わせて 2001年の文化庁調査では 161,560 基だった、実際には古墳時代の 400年間に築かれた墳墓の実数はもっと多かった。 ... 前方後円墳自体、政治的には身分や階級を表す構築物であり、その画一的な形式は 地方が中央の政治的規制の下にあったコトを示している。 その中で見落とせないのが副葬品の中の銅鏡の役割である。 銅鏡の生産は、既に三国時代 (AD184〜280、魏・蜀・呉 ) 以降 大陸では減少傾向にあったが、倭国では弥生時代から古墳時代に掛けての間、貴重な器物として支配者間で珍重された。 銅鏡を死者と共に副葬する習慣は弥生時代中期にはじまり古墳時代にまで引き継がれた。 初期に造られた京都府 山城の椿井大塚山古墳では36面の銅鏡が、奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳では81面相当の銅鏡が副葬されていたと云う。

 3世紀のAD.290 年に魏の皇帝が 倭の卑弥呼に銅鏡 百枚を与えた話は有名で教科書にも載るが、... 後の倭国政権は入手した銅鏡を支配のシンボルとして地方の豪族や首長に分け与えた。 3世紀頃の弥生時代中期には国産の仿製鏡 (ほうせい鏡) も大量に生産されていて、一説ではこの鏡は粗鉄の購入代金として使われていたとの説もある程だ。 しかし、その銅鏡の需要も古墳時代の中期以降は徐々に減少していき、後の 推古朝の時代には殆ど消えてしまう。 ... 銅鏡の原料構成は、Cu 68% ・ Sn 24% ・ Pb 5% ... 、で 完成品は錫分が 20% 以上の合金の青銅品で、薄作りの凸面鏡であった。 鏡の製造は、鋳型に鋳造して研磨し、錫メッキをかけた後に再度研磨して完成していた。 最終の研磨にはシュウ酸分を含むカタバミで磨いて表面の輝きを得ていた。 江戸時代の末期に西洋からガラス製の鏡が齎されるまでの間、生活用品としての銅鏡が細々と作られていた。

 参考書 :
シンポジウム「発見・検証・日本の古代」 2015. 10. 朝日新聞
森下章司   倭の鏡  川崎市民ミュージアム講演会 / 2015. 10.

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
見えてきた古代日本 ぬるでんぼう/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる