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zoom RSS 天守閣をつくる

<<   作成日時 : 2016/01/15 10:28   >>

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  1950~60 年代に起きた 「お城ブーム」 では、第二次大戦中に米軍の空爆で焼失した城 (天守閣) の復元が各地で行われ、コンクリート造りの城が幾つも誕生した。 今また 歴女ブームに次ぐ平成のお城ブームの再来で、各地で城郭復元の機運が高まっている。 大規模城郭では 江戸城、甲府城、駿府城が話題を集め、地方でも小規模城郭の復元が複数取沙汰されている。 名古屋では現存のコンクリート造りの天守を木造に建て替える構想が浮上。 木造とコンクリート造りでは重量比は 1 対 3 、コンクリート造りの天守は将来的には弘前城の様に天守を支える天守台の方が傾く可能性もある。 ... 日本には中世以降に造られた城址が2万ヵ所ある、再建が歴史遺産としての城の復元なら兎も角、単なる観光目的や歴史的に意義の無い城の復元は止めるべきであろう。 特に江戸城の復元など、皇居を見下ろす場所への天守の建造には国民的合意も必要かと思う。

 中世迄の城の多くは、地元の土賊や土豪が利己的な立場で築いた城に過ぎない。 だが 近世の城は、覇者と その臣が 戦の無い国造りを目指して全国に計画的に配置した謂わば戦略的拠点である、その為には不要な城は悉く廃城にしている。 ... 信長・秀吉・家康と 覇者が交代した 16~17世紀には城の主はその都度大きく変った。 これらは城の分布状況が、東日本に少なく 西日本に多いのにも関係している。 ... さて、 築城に際して最も難しいのは城の中心となる天守閣の建造である。 建造には先ず頑丈な天守台を造りその上に建物を建てねばならない。 その為には、用地の選定から地形や地層、水脈、排水に至るまで慎重に検討を重ね、その上で天守の構造や形式を決め、優秀な棟梁に大工、石工、土建業者を、更には石材建材を手配して、漸く建造に取り掛かれた。 天守には、覇者の建てる天守、重臣の建てる天守、外様大名の建てる天守等あるが、その間には自ずと格式による差があり、規模や造作、装飾等に就いても制限があった。 築城はそんな制約の下で期限に追われながら行われた。 但し、城を持てるのは諸大名のうち城主大名のみである。

 天守閣は天守台の上に建てられる。 従って、天守台は建物の重量に耐えうる頑丈な台でなければならない。 天守の重量は、最近の修復時の記録に依れば 姫路城が 5700トン、松本城 1000トン、弘前城 400トン、 丸岡城 170トンとある。 更に、天守閣の耐用年数の方は一般的には 150〜200年、それも修復により寿命は更に延ばせる。 例えば、現存する犬山城天守の 1〜2 階部分は完成後 480年を、姫路城は 400年を経ている。 天守台の面積では、最大の大坂城の天守台は 430u、広島城クラスで 330u、犬山城 220u、宇和島城 120u である。 天守台は、この重量と この平面積を持つ天守閣を支え続けねばならず 頑丈さが求められる所以である。 ... 滋賀県米原市の山中に中世の山城、鎌刃城跡がある。 ここで最近、半地下式の建物跡から柱の礎石が発見された。 当時から、信長は過重による天守台の崩壊を防ぐ為に この城の建造技術を採用していたと云う。 以来、天守台の建造は土盛をして石垣で囲み、内部に複数の支柱を立てて天守の重量を支える様になった。

 天守台の周囲を固めるのは石垣である。 天守の大型化に伴い石垣の積み方も大きく変わった。 信長・秀吉の16世紀の時代には、石垣は空積技法が主流だったが、17世紀に入ると接着材を使った練積みが行われる様になる。 つまり、自然石をそのまま積み上げる野面積みに対して 17世紀以降は石の面を加工整形して石材を密着させて積み上げる方式に変わり、より高い急勾配の石垣の造成が可能になった。 ... 我が国 最後の築城である長野県 旧臼田町の龍岡城は、小規模故に天守は持たないが星形の洋式城郭と石垣の造形美が夙に有名である。 この城の石積みは、正面は綺麗な布積みで造り 砲台付近は菱形を配列した亀甲積み (洋式工法)、見えない後方部分は見栄えは良くないが頑丈な野面積みで仕上げてある。 石垣工事を請負ったのは近隣の高遠藩の石工衆と聞くが、中世以降のわが国には高い石工技術を持つ穴太衆 (あのうしゅう)・尾張衆・越前衆などの石工集団が各地で活躍していた。

 天守閣の構造には、@ 望楼型天守と A 層塔型天守がある。 @ 型 は主に 16世紀中に建てられた天守で、秀吉の大坂城をはじめ、姫路城、犬山城、高知城...等がある。 この方式の特徴は、入母屋造りの上に望楼を載せたタイプである。 A 型 は 17世紀に入ってから建てられた天守で、築城技術が進歩して天守台を正確に正四方形に造れる様になってから普及した。 この方式では、建物の各階の面積を 上層に行くに従い逓減できるので江戸城や名古屋城で採用された、この新しい方式の開発により 均整のとれた美しい天守閣が造れる様になった訳だ。 ... 実は @ 型の時代には、未だ大土木事業では正確な正四方形の形が造れなかった、その為に この時代には歪んだ方形の天守台の上に望楼型の天守を載せるしかなかったのである。

 参考書 :
三浦正幸  甲府城の幻の天守   山梨総合研究所

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