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zoom RSS 頼朝の流人生活

<<   作成日時 : 2016/03/15 12:10   >>

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 頼朝の後半生から最期に就いては平成 8年の 7月に このブログ上で記述した。 だが、彼の前半性についてはハッキリしない部分が多く事実関係も良く掴めないままでいた。 ところが最近、歴史関係誌の 「本郷」 で、”流人源頼朝が歩いた道” という記事を見つけたので、早速 元本の末尾掲載の著書を求めて頼朝の前半生について纏めてみた...。 但し、私的生活の部分は省いてある。

 頼朝は 1180年 (治承4年) 、21年間の流人生活の後 伊豆で源氏再興の旗を揚げた、 今から 836年前のコトである。 ... 実はこれに先立つ 3年前の 1177年 (治承元年) には 京で後白河院の近臣らによる平氏打倒計画が発覚した鹿ヶ谷事件があり、1180年の初めには後白河院の第二子の以仁王 (もちひとおう) と在京源氏の源頼政によるクーデター 「以仁王の乱」 があった。 だが何れも事前の情報洩れで平家打倒の決起は失敗していた。 しかし、この時点では既に以仁王からの 「 平氏打倒の令旨 」 は諸国の源氏に伝達されており、当然ながら伊豆の頼朝にも叔父の源行家を通じて 諸国の情勢は伝わっていた。 ... これに呼応して頼朝は、平家側が本格的な臨戦態勢を整える前にと、旗揚げを急ぎ決断した訳である。

 源氏の祖は第56代の清和天皇。 頼朝は系図上では源家の 11代目に当り、摂津源氏・大和源氏に次ぐ河内源氏の頭領でもある。 同じ時代の平家は第50代の桓武天皇を粗とし、清盛は系図上では 12代目に当たる。 東国で新しい国造りを目指した平家の平将門は桓武天皇から数えて 5代目、彼は新しい皇位の 「新皇」 を名乗った。 だが、頼朝や清盛の代では さすがに天皇を名乗るコトはなかった。 ... 源氏の一族では、3代目の源頼光は平安中期の武将で摂津源氏の創始者、大江山の酒呑童子退治の武者として知られている。 以仁王とクーデターを計画した源の頼政は摂津源氏の 8代目。 東北を制圧した八幡太郎義家は河内源氏の主流で7代目、亜流の10代目の源為朝は別名を鎮西八郎と云い平安時代後期の弓の名人、京から平家を追放した木曽義仲は11代目で頼朝の従兄弟に当る。 ... なお、後年の甲斐源氏は河内源氏から分派した一族である。

 頼朝は 1147年 (久安3年) 生まれの京育ちで、1199年 (建久10年) に神奈川県藤沢市辻堂 で落馬事故で亡くなっている。 その彼は 幼少期の 12年間は京で過ごし、13歳から34歳までの 21年間は流人として伊豆で暮らし、旗揚げ後の 35才から53才までの 18年間は家族と共に鎌倉で過ごした。 頼朝の父は、源氏10代の源義朝で 母は名古屋の熱田神宮の大宮司、藤原某の娘である。 出世競争で同輩の清盛に遅れをとった父の義朝は保元の乱では勝者側に与して源氏は栄えたが、続く平治の乱では敗者側に付いた為に失脚、当然のコトながら敗戦処理では子息の頼朝〜義経に至るまでが同罪となり処分の対象となった。 保元・平治の乱は、元は何れも皇位継承に伴う皇統同士、或いは貴族間の争いであり、武士は政争に加担させられた側の戦だったが戦後処理では敗者となった頼朝は伊豆へ流される。

 頼朝の伊豆での流人生活の場所は、北条時政の領地の伊豆半島中部の 「蛭ヶ小島」 と思いがちだが、坂井孝一さんに依れば、最初の 16年間は平重盛の家人だった伊東祐親に預けられ、伊豆半島東部の現在の伊東市内で流人生活を送っていたとある。 今となっては 12世紀当時の記録は何も残されていないので分からないが、恐らくは現在の伊東市の中心部を流れている松川、その河口の国道135号線から500mほど川を遡った音無町周辺だったのではと推測している。 現在、伊東市役所の西方 200m地点に伊東祐親の墓所と菩提寺である東林寺が有るが、この地点から川沿いの音無町に掛けての 400m位の間の何処かに、伊東祐親一族が住んだ館と、流人の頼朝が16年間暮らした場所が有ったのではと想像できる。 何れにしても東海道の主要街道から遠く離れた僻地での流人生活だったコトは間違いない。

 祐親一族の九郎祐長の通報で、祐親の郎党らによる意趣返しの襲撃から危うく逃れた頼朝は (走湯山)伊豆山神社に逃げて身を隠すが、これは流人生活 16年目の大危難だった。 ここから再び北条時政の領地の蛭ヶ小島に移されて、頼朝は更に 5年間の流人生活を送らざるを得なかった。 ... この北条時政は通報した九郎祐長の烏帽子親だったと云う。 ... この様な経緯の下で 1180年に漸く頼朝は源氏再興の旗を挙げる訳だが、最初は流人故に兵は集まらず苦戦の連続だったと云う。 旗揚げの初期段階に頼朝に呼応して平家側と戦ったのは、北条時宗、土肥実平、箱根権現の僧兵、三浦一族等であったが、その 1ヵ月半後に房総半島経由で鎌倉に入城した時には、源氏の軍勢は数万に膨れ上がっていた。 鎌倉に着いた頼朝は箱根神社に匿われていた妻子を呼び寄せ、幕府開設の準備に取り掛かる。 ... 平清盛が興した武家政権を完成させたのは源頼朝、武家政治はこの後 北条・足利・徳川と引き継がれて 700年もの長きに亘って続く。

 参考書 :
坂井孝一  源頼朝と鎌倉  吉川弘文館

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