ぬるでんぼう

アクセスカウンタ

zoom RSS 王禅寺かいわい

<<   作成日時 : 2017/01/15 16:49   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 川崎市の北西部、麻生区の丘陵上に名刹、王禅寺がある (明治以前は武蔵国都築郡に属していた)。 この寺の寺号は星宿山王禅寺だが、最初は星降山...、だった。 星降るとは流れ星のコト、願いを叶えるには「星降る...」 の方が勝る。 寺の創建は諸説あるが、現在では917年 (延喜17年) の創建説が有力である。 「名刹王禅寺」 を著した三輪修三氏は、王禅寺の歴史が明らかでないのは複数回の火災で寺蔵の資料が失われた為と云う。 武蔵国の多摩川右岸で古代に元気だったのは橘樹郡の影向寺であり、中世前期に脚光を浴びたのは西方多摩郡の威光寺、中世中〜後期に活躍したのが都築郡の王禅寺で、近世には川崎大師が大繁盛している。

 王禅寺の最盛期の絵図には境内に真言密教を修行する七堂伽藍が書かれていると云う。 元々、王禅寺は神仏混淆の寺で然も学問寺として創建されたので檀家は無く近隣の末寺からの上納金で運営されていた。 尤も、後北条氏の時代には 銀30貫が、江戸時代には幕府から 30石の碌が与えられているが、この禄高自体は他の寺院のそれと比べて特に多くはない。 さて、この寺の最大の惨禍は 1333年 (元弘 3年)、北条幕府討伐の為に鎌倉を攻めた新田義貞の軍の兵火による火災だった。 太平記の巻 10 には、上野 (群馬) の国で僅か 150騎で倒幕の旗揚げをした新田軍は、途中の小手指原 (所沢)、久米川 (東村山)、分倍河原 (府中) で幕府軍を撃破し、多摩川を渡って生田 (川崎)、横浜を経て最終 60万7千騎 ? にまで増えた大軍をもって鎌倉を攻めたとある。 王禅寺はこの戦の途中で戦火に遭い被災したが、37年後の 1370年に勅命を受けた金沢文庫の稱名寺の等海上人により再建されている。

 王禅寺のある現在の川崎市麻生区から横浜市北部の地域一帯は、地形的には多摩丘陵の多摩U面に属する。 然もこの標高 100〜50 m の丘陵地は、複数の小河川に依って削られ 浸食されて起伏に富んだ丘陵地を形成している。 また地層も多摩丘陵地一帯を厚く覆った関東ローム層とその基盤岩の おし沼礫層であり、この両者は川崎市登戸の生田緑地で観察できる地層とほぼ同じである。 この丘陵から流れ出る河川は、東へ向けては五反田川と平瀬川が多摩川に向かって流れ、南方に向けては早瀬川、真福寺川、早瀬川が鶴見川へ向けて流れている、これらの河川は何れも この台地の水源より発している。 ...豊饒な農地に恵まれず農家の副業として栽培されてきた禅寺丸柿は、江戸時代にはこの地に年に総計 100 両もの現金収入を齎していたと云われるが、現在ではワインに昔の名を残すのみである。

 王禅寺の西方 500 m の真福寺では関東ローム層の立川層 (25000〜10000年前) 中から縄文時代早期の遺跡が、2 km先の鶴川の岡上丸山遺跡からは縄文時代の住居跡が発見され、更に西方 5 km の小田急線、多摩線沿線の黒川では旧石器時代の遺跡が確認されている。 下って 7世紀の奈良時代には律令制に従い武蔵国南部に都築郡と橘樹郡が設置されたが、当時の両郡の境界線は現在の横浜市青葉区北端に源を発する早淵川だったとの言い伝えもある。 荘園の全盛期だった平安時代には当地は稲毛氏の支配下にあり、鎌倉時代には鎌倉街道が整備されて小規模領主による分治が進んでいた。 その後は、後北条氏の支配下にあったが、江戸時代には再び幕府の直轄地や旗本領に振り分けられて分治されていた。

 明治時代に入り近代的な町制が敷かれるまでは 当地の王禅寺村は武蔵国の都築郡に属していた。 昔の都築郡の範囲は広く、区域は現在の川崎市麻生区の一部に横浜市の青葉区、都筑区、緑区、更に港北区と保土ヶ谷区、瀬谷区の一部から成り、明治初年の旧高旧領取調帳に依れば、江戸時代の当地の石高は、幕府領 14ヵ村、旗本領 35ヵ村、幕府旗本領 25ヵ村、寺社領 (王禅寺と芝増上寺領) 4ヵ村で、〆て総計28,580石の領地であった。

 参考書 :
三輪修三  名刹王禅寺  川崎市民アカデミー

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
王禅寺かいわい ぬるでんぼう/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる