ぬるでんぼう

アクセスカウンタ

zoom RSS 「異国船打ち払い令」

<<   作成日時 : 2017/02/28 12:07   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 京浜急行線の浦賀駅で下車、海沿いに 30分程歩くと右側奥の小高い場所に江戸時代の浦賀奉行所跡がある。 1720年 (享保 5年) に置かれた浦賀奉行所は総勢 250 名、職務は江戸湾に入る船舶の監視、積み荷の検査、海難救助、三浦半島内の民政、...等であるが、中でも江戸湾の防衛は地政学上 最重要の仕事であった。 浦賀奉行所が廃止になるまでの 150年間に延べ 52人の奉行が職務を遂行したが、彼らの役割は最高責任者として江戸防衛の為に江戸湾と三浦半島を警護するコトにあった (対岸の房総半島は幕府の代官が代行)。 軍事面で奉行を補佐したのは、前半は会津藩、後半は川越藩と小田原藩で何れも親藩であった (房総半島側は白河藩と久留里藩、佐倉藩が補佐した)。 ... 江戸湾、実は江戸時代には この海に名前はなかった、江戸湾は明治時代以降の造語である。 現在は東京湾であるが、江戸時代以前の東京湾を江戸湾と表す。

 当時は外国貿易の窓口は原則、オランダ、清国、琉球、朝鮮の 4ヵ国だったが、19世紀に入るとイギリス、アメリカ、ロシアの艦船が開国・通商を求めて頻繁に来るようになる。 それらの艦船は軍艦であったり、商船、捕鯨船であった。 来航目的は、@ 開国して商取引を求める、A 日本近海の航路開拓、B 水や食料、燃料の調達等であった。 特に 1840年にイギリスと清国の間でアヘン戦争が始まると 幕府や沿岸各藩は アジア各地で植民地化を進める欧米諸国に対して危機感を持ち、外国船の動向には神経をとがらせていた。 だが 国内では開国か攘夷かで思惑が錯綜していた。

 浦賀に初めて外国船が来航したのは1818年 (文政元年)、イギリスの商船ブラザーズ号であった。 ...この時の浦賀奉行所の対応は早かった。 外国船の来訪を知ったのは 5/14 の朝、奉行所は即座に役人を派遣して状況を把握。 その結果、船はイギリスの商船であるコト、大量の武器を持っているコト等が判明した。 この内容は直ちに早馬で江戸幕府に報告され、同時に江戸湾の警護に当たっていた会津藩と白河藩にも伝達された。 その後、奉行所は船を浦賀港の入口に移動させ、周囲を 80隻の和船で取り囲み 更にその外側を会津藩の兵船で固めた。 5/18 に漸く幕府から通詞 (通訳) が到着、船長から来航の目的を聞いた結果、イギリスとは交易が出来ない旨を伝え、直ちに出港するよう求めた。 5/21 イギリス船は江戸湾を離れこの件は終了した。... この事件はペリー来航より 32 年前の出来事だった。

 1824年 (文政7年) 5/28 には、常陸国の大津浜 (北茨城市) に外国船員 12人がボートにて上陸。 村民は彼らを拘束して空き家に監禁、急報を受けた水戸藩は藩士2名を現地に派遣し、近隣の村から郷士、猟師、郷足軽等を動員して警戒に当たる。 6/1 に水戸藩から筆談役が到着。 6/2 に6人が脱走したので残りの 6名を土蔵に移す。 6/3 船長と筆談の結果、35隻のイギリス船団の内の 3隻が大津浜に停泊し、その船員は総勢 100名であるコトが判明したが、言葉は全く通用しなかった。 6/5、江戸から通詞が到着、問答の結果 船は捕鯨船であるコト、船内には壊血病患者が居るので新鮮な野菜・果物を求めて上陸したコトが判明。 6/10、二艘の小舟に大根やビワなどの野菜・果物を積み与え、退去させて終了した。

 外国船が頻繁に来航するようになり、 他にも長崎のフェートン号事件や薩摩の宝島事件等の後、洋上にて領民が外国船と物々交換をする事件が発生したのを受けて、幕府は 1825年 (文政8年) に 「異国船打ち払い令」を公布した。 目的は来航する捕鯨船や商船の排除にあった。 だが、それは今様に云えば、イスラム 7か国の移民・難民への入国拒否令の様なものだった。 ... そんな中、1837年 (天保8年) の 6/28、昼過ぎに大型船 1 隻が浦賀沖に現れる。 これを見た浦賀奉行は外国船の来航を幕府に報告、自らは 「異国船打ち払い令」 に従い浦賀港近くの平根山台場に出馬して外国船打ち払いの陣頭指揮を執る。 当日の午後より一方的に砲撃を開始。 同時に甲冑に身を固め武装した与力・同心が警備艇に乗り込み船を追った。 激しい砲撃の中、船は江戸湾内を逃げ回り 6/29、早暁から再び砲撃を開始すると、船はたまらず江戸湾外へと逃走して終わった。

 翌年、オランダからの情報で 浦賀沖で打ち払った船はアメリカの商船モリソン号と判明、船は日本人漂流民の送還と通商を求めての来航だった。 しかも商船は湾内では礼儀を重んじて大砲を外していた為に幕府側からの突然の砲撃に応戦出来なかったとあった。 その時、非武装の商船への砲撃に対しては渡辺崋山・高野長英らは幕府を批判、逮捕されている。 ... その後 幕府は、1824年 (天保13年) にアヘン戦争に完敗した清国を見て、国際紛争を回避する為として、否 列強との対決を恐れて 「異国船打ち払い令」 を廃止、同時に再び従前の 「薪水給与令」 に戻して事なきを計った。 ...この騒動はペリー来航より 11年前の出来事である。

 参考書 :
西川武臣    浦賀奉行所    有隣堂



 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
「異国船打ち払い令」 ぬるでんぼう/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる