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zoom RSS 領主と領民の戦国時代

<<   作成日時 : 2018/06/19 23:03   >>

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 2018年6月、NHKの歴史ヒストリアでは戦国武将、小田氏治をとり上げた。 それは昨年の井伊の女城主に次ぐ異色の番組だった。 この武将の小田氏氏治は現在の茨城県つくば市の付近、当時の常陸地方南部を領した小田城の15代目の当主 小田氏治 (1531〜1602年)で推定では石高 7万国位の中規模大名、番組ではこの地方大名の戦国生き残り術を演じていた。 当初はこの小田家は源氏の鎌倉幕府からこの地の守護職を任じられていたが 次の代の北条は任命しなかった。 その後の小田家は南北朝時代には後醍醐の南朝に付き、室町時代には鎌倉公方と古賀公方の争いに翻弄され、戦国時代には同じ常陸の佐竹、下総の結城、越後の上杉、相模の後北条らに次々と攻められては連戦連敗、その度に城を奪われて支城に落ち延び 後に外交力で回復、だが戦国時代最後の大戦争、秀吉の小田原攻めでは後北条側に与して敗北、領地は没収、後に秀吉に詫びを入れて結城家の客分に遇され僅かに300石を与えられて 72才で没した。 現在、城跡は発掘調査されて小田城跡歴史広場として公開されている、東西 500m×南北600m規模で三重の濠跡と大小の曲輪跡が残る。

 15代続いた小田家の最初の躓きは、有名な川越の夜戦で上杉足利方に与して小田原の後北条に敗れたコト、この時以来 家は傾き始め衰退へと向かう。 更に、最後の15代目の時代は戦国末期で戦が多く、7万石程度の領主が擁する1千4〜5百程度の手勢では周囲の大大名には抗する術もなく翻弄されて自滅したという訳。 然も戦国最後の小田原の役ではせめて勝ち組の傘下にいればお家の存続は有り得たと思うが、反秀吉では領地没収も止むを得まい。 依ってこの15代さん、ただ生かされていただけの不死鳥で、領民にとっては しがない貧乏神の領主だった。 この時代、戦に負ければ領主だけではない、そこに住む領民だって敵の雑兵に蹂躙され、餌食にされて悲惨な目に遭った。 逆に強い領主の下に居れば家も家族も財産も田畑も保証されて、然も雑兵として敵地に乗り込み相手側から財産や奴隷を奪ってくることも出来た。

 推定では我が国の人口は鎌倉時代 (1200年頃) で 600万人、戦国時代の末期 (1600年頃)で 1700万人だった。 ...にも拘らず、王朝文化の華やかさの裏では 諸国の領民はみんな貧しく貧乏で、然も土地の生産性は低く絶えず各地で食料の奪い合いが繰り返されていた。 この奪い合いが国境を超えればそれは即 戦争だった。 ...この時代の富は食料であり、銭であり、家財、言い換えれば、それは土地であり、鉱山(金・銀・銅) であった。 故に この時代の戦争は富の奪い合いであった。... だから 一旦戦争が始まれば、それは絶対に勝たねばならない戦争だった。 戦国時代の軍の構成は正規の武士1名に対して農民上がりの雑兵はその数倍の人数、軍紀の隙をついて この雑兵共が盗賊化していた。 応仁の乱で京の街を焼き払い略奪の限りを尽くしたのも雑兵集団だったが、実は侍大将だった秀吉ですら 1574年に浅井長政を滅ぼして近江を制圧した時には、浅井が琵琶湖の竹生島の寺に預けていた湖に浮かぶ大量の材木を寺を脅して強制的に没収している。

 ... 既に戦乱が無くなった江戸時代の初期に 「雑兵物語」が書かれた。 内容は過去に雑兵達がやっていた敵地住民の家財等の強奪の手引き・ノウハウ集である。 即ち、敵地に赴いた雑兵達が民家に押し入り、隠された家財を探しだす方法と手順が書かれたもので、家財の隠し場所からその探し方まで成程と頷けるものが多数載っている。 例えば、米とか衣類は必ず家の中の床下の地中のどこかに埋めてある。 家の外に埋める時には鍋や釜に入れて上に土をかぶせて埋めてある。 だが例え外に埋めても霜の下りた朝などには土の色から異変を判別できる等々...。 一方、隠す側も必死だった。 戦争の多かった関東平野の房総 (千葉県)の下総台地では、家屋敷の下に地下坑をを掘り抜き 中にトランクルームを造って家財を隠していた。 下総一帯では 3000基もの地下坑が発見されている。 墓地説もあるが、家屋敷の下に墓地とは考えにくい。 形式は異なるが同様の地下坑は東京の日野市の百草園周辺の山の斜面や、府中市の大國魂神社の参道の周辺でも多数発見されている。 こちらの地下坑は何れも2m程の竪穴の底から横方向に部屋が造られており、灯りを燈した跡も残っている。 恐らくはこの様な習俗は関東だけでなく中世の戦国時代には日本中いたる所に有ったものと思う。

 大陸の城郭がそうであるように戦国末期の後北条の小田原城は広域に構えて場内に一般の農民や商人をも住まわせる城であった。 だがそれはズーッと後の時代の安土桃山時代に入り大型の城が各地の平地 (平城・平山城 )に築かれる様になってからのコトで山城の時代には無かった。 因みに、後北条の小田原城の城域は東西に3km、南北に 2.2km で周囲は 5m高の 城壁で囲ってあった。 堅固だった当時の小田原城は上杉謙信や武田信玄による攻撃にも耐えている。 この様な堅固な城であれば場内に住む一般人も安心していられたものと思う。

 参考書 :

藤木久志  城と隠物の戦国誌   朝日新聞出版

 

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