長崎のんびり旅

 長崎市の花はアジサイ...、紫陽花(アジサイ)は雨に良く似合う 夏の季語である。 暖流の流れる長崎の年間降水量は1600mm超、多雨の原因はその海洋性気候にある。

 長崎は坂の町、市の中心部は三方を山に囲まれ北方に向けて開けた地形である。 それに、あまり知られていないが長崎市は、大昔の火山の上に乗っかっている街だ。 今の長崎港を中心に、大村湾に面する時津町から東へ多良見町、更に橘湾の茂木町、外洋の香焼町を丸く結ぶ半径10km程の円は仮称長崎火山の裾野である。 雲仙岳や県東方の多良岳が形成されたのが更新世だとすれば、長崎火山も同時期の80万年前より古い時代の火山であろう。 今の地形は、火成活動を終えた火山が、後に中島川などの河川の浸食と海底の沈降により形造られたものである。 長崎半島北部は、広く新期火山岩類に覆われていて火山噴火の跡を残すが、火口跡は未発見である。 この時代の長崎付近の古地図を想定すれば、少し乱暴だが 大村湾と有明海・橘湾は海続き、そこに雲仙、多良、長崎の各火山が林立している、そんな構図が浮かんで来そうだ...。画像

 長崎市に入る時は、何時もは空港から船で時津町に上陸していたが今回はバスを利用した。 所がウッカリして何処かで財布を紛失、困っていたら長崎のバス会社で保管してくれていた。 お蔭様で生き返った心地で旅を楽しめた、ありがとう。 ...さて、居留地の面影が残る大浦の天主堂から裏手の急坂を上ると旧グラバー邸に着く、この建物は真上から見ると四葉のクローバの形をしている筈だが、つい見過ごしてしまった。 当主のグラバー氏は英国人の政商で、1871年に来日して薩摩藩や長州藩に軍艦や武器を売ったり留学の斡旋まで行うなどして討幕派に肩入れした人物。 庭園に残る立派な蘇鉄は薩摩藩からの贈物と云う。

 明治の中頃のこの地は、オペラ 「蝶々夫人」の舞台となる。 これを小説化したのはアメリカ人のR・ロングであり、オペラ化したのはイタリア人のプッチーニだった、またオペラ演出では戦前は三浦環が、戦後はM・カラスが主演だった。 蝶々夫人は、ベルディーの椿姫やビゼーのカルメンと並ぶ オペラ三大傑作の一つとされる...。 三浦環は東京音楽学校(東京芸大)で滝廉太郎にピアノを学んで 1915年にソプラノ歌手としてデビューした。 戦前は欧米各地で活躍し、蝶々夫人への公演は 2000回を数えると云う。 第二次大戦中は演劇などはご法度となり、三浦は山梨に疎開して戦後の1946年に他界した。...蝶々夫人の実モデルについては、旧大村藩士の子女説等々...、諸説有りで今なお決着していない。

 長崎は1570年に開港、先ず秀吉はここを直轄領として奉行を置き、家康は天領として海外への窓口とした。 幕末の1858年には、修好条約により長崎・横浜・神戸・函館・東京築地等の地に外国人専用の居留地が置かれた。 ...長崎では港付近に出島 (後楽園の1/3)を造成してポルトガル人の居留地とした。 しかし島原の乱の後は、オランダ人の居留地に替わった。 1870年以降、長崎は国際貿易港として発展し、外国人の居留者も増え続け居留地は次第に山の手方面へと広がる。 ...所が明治時代に入ると情勢は一変して、外国貿易の相当部分が横浜・神戸港に移ってしまい、長崎港の重要性は相対的に低下していくコトに。

 グラバー庭園奥の南口から斜行エレベーターで急坂を降り、市電の線路を跨ぐと南山手への登り口に差し掛かる。孔子廟を左手に見ながら上る石畳の坂道の続きが、有名なオランダ坂である。 A・ハウゼ演奏の ”小雨降る径” や古関裕而作曲の ”雨のオランダ坂” が良く似合う遊歩道だった。 異国情緒豊かな景色を観ながらノンビリと散策を楽しんでいたら突然、騒音と共に小型車が脇を走り抜けて行った。 何も石畳の道で...、と思ってはみたものの考えてみれば、ここに住んでいる人々にとって、この道は生活道路だった。 ...京都の 「哲学の道」などとは違い、長崎には観光客が静かに散策する道などは無い様だ。

 市電の中で、学生達が 「チョウダイ」 「 〃 」 と話をしている、最初は意味が分からなかった。 後で学生さんに聞いてみたら長崎大学の略称だった。 今、この大学で核をなす学部は、外から見ればノーベル賞受賞者を輩出した医学部と伝統の経済学部であろう。 その経済学部の前身は旧制長崎高等商業学校だった、1905年に東京、神戸の高商に次いで新設された第三の高商である。 貿易の町の長崎にふさわしく海外貿易科と予科が設置され国際貿易に従事する人材を数多育成した。 第二次大戦中は経済専門学校となり 1949年(S24)に大学設置法によって 「チョウダイ」に包括されて長崎大学経済学部となった。 College として生きる道もあったと思うが、何れにしても100年余の歴史を持つ経済学部である。 原爆被災で校舎は半壊し、唯一軽傷で残った校門衛所の建物遺構は現在 グラバー庭園に移設され、昔の長崎高商の面影を伝えている。

 参考書 :
波多江伸広  大村湾を中心とする地域の地質構造発達史
             鹿児島大学理学部紀要Vol 9/p21~

写 真 :  グラバー庭園に残る居留地境界の標石

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