伊豆大島を探る

 伊豆の大島は全国各県に 56 島有る 同名の大島の中で最も大きな島である。 1928年 (S3年)に野口雨情作詞の 「波浮の港」 が発表されるまでは この島を知る人は少なかった。 江戸中期まで流刑地だったコトが島のイメージを損なっていたのだろう。 だが 1964年 (S39年)に陽気な 「あんこ椿は... 」 の歌がが流行った頃から島は旅行ブームに沸いた、だが 21世紀に入ると再び観光は低迷し漁業も畜産も伸び悩み、人口は 8,000人にまで減少してしまった。 ... 大島は 果して甦るのか?

 1986年 (S61年)の大島の噴火は島民全員が避難する程の規模だった。 対岸の鎌倉からも夜には赤く染まって見えた大島だが、噴火が終わってしまえば何事も無かったかのような静かな島だった。 わたしも 噴火が収まってから 2 回ほど大島を訪れ、特に割れ目噴火の跡を丹念に観察して回った。 ...連絡船の上から眺める大島 三宅島 八丈島と続く島々が黒系の玄武岩質の列なのに対して、新島から神津島 式根島と続く島々は珪長質の白系の色なので青い海の上では 両者は際立って対照的に映る。 小笠原弧の最北端に位置する大島は何れ丹沢山塊や伊豆半島の後を追って 50万年後には本州の伊豆半島に接近して、本州に衝突して来る。 ...伊豆大島を載せたフィリピン海プレートの北上する速さは年間 4~5cm、更に その下に潜り込む太平洋プレートの東進する速さは 9~10cmとされるが、これらプレートが移動する原因については未だに 未解明の部分が多い。

 大島が何時生まれたかについてはハッキリしない。 ただ島の基盤岩は伊豆半島周辺に広がる中新世の湯ヶ島層群系と推定され その上に島の東部分に露出する鮮新世末から更新世 (500~258万年前、258~1万年前)に活躍した岡田火山や筆島火山などの層が重なり、更に 5万年前から活躍し始めた三原山火山がこれらの古い火山群を覆った結果、現在の大島火山が成立したものと考えられている。 大島火山が今の様な姿にまで成長したのは約 2万年前とされる。 ...地図上で見る大島は木の葉の様な形をしている これは島が北北西ー南南東方面に延びている為で、割れ目噴火はこの線に沿って噴火した。 ...更に、この延長線上の遥か先にある箱根の寄生火山群 (側火山)も 同じ方向に並んで噴火活動をした。

 或るとき皆で裏砂漠に行き、古いスコリア層の表面を掘って地中に眠る 「ペレの髪の毛」 を探したコトがある。 火山噴火で噴出する溶岩からは無数の飛沫が飛び散るが、それが空中で急冷されてできる細い線状のガラス体が 「ペレ」 である。 岩石学辞典にはマグマが延ばされて繊維状の岩石ガラスとなった火山砕屑物...云々とある。 Pele's hair とはハワイの 「火の女神の髪の毛」 のコトでハワイのキラウエア火山から噴出する ペレが有名である。 ペレは玄武岩溶岩を噴出する火山特有の現象であり、従って金髪は有りえず色は褐色系である、長さ 20~35mm程度のペレだが広い荒野では簡単には見つからない。 出来れば掘る道具を持参した方が好さそうだ。...他にペレの涙と云うのもある。 涙の径は 10mm以下と云う。 日本では長崎県五島市の鬼ヶ岳で産するとあるがまだ見たコトはない。

 大島火山の 1957年 (S32年)の噴火では火山弾で観光客1名が死亡して 53名が重軽傷を負った。 1986年 (S61年)の噴火は中規模だったが全島の 1万人が島外に避難して幸い人的被害は免れた。 ...阿蘇の中岳の場合は火口周辺に複数の避難所が有るものの、噴火の多発した 1950年代には 53年に死者 6名 負傷者 90名余、58年には死者 12名 負傷者 28名の被災記録がある。 更に最近 噴火は無いものの 90年代には二酸化硫黄ガスによる死亡事故が相次いだ。 ...大島三原山の場合は、旅行者数に比べて緊急の避難所が少ない、突然の噴火時には旅行者自らが危機に対応する以外にない。 1991年 (H3年)に雲仙岳で発生した突然の火砕流では、注意していたにも拘らずフランスの火山学者クラフト氏夫妻やアメリカの地質調査所のH・グリッケン氏、市の消防団員など死者 43名 負傷者 9名の犠牲をだした。

 波浮の港は大島の裏玄関である、西側の崖の上から見下ろす港は、楕円形の窪地になっている。 この地形は 9世紀の水蒸気爆発で出来た直径 500m程のマール (単性火山の爆裂口跡で、ここでは火口湖) で、後に大津波に襲われて外洋と繋がった。 その後、島民は残された崖を切り崩して港口を広げて波浮の港を造った。 昭和の初期まで淋しい漁村だった波浮は、その後は遠洋漁業の中継基地として一時期栄えた。 だがそれも束の間、第2次大戦が始まると 1944年 (S19年) に日本海軍の魚雷艇特攻隊の中継基地として波浮の港は軍に接収され、村の民家も全て軍隊に接収されて村民は長野県への集団疎開を命じられた。 その後に輸送船舶の不足を理由に命令は撤回されたものの戦時中の村民は生活に窮した。 ...大島波浮の港の知られざる歴史である。

参考書 :
大森昌衛他  日本の地質3 /関東地方  共立出版(株)
鈴木淑夫    岩石学辞典       朝倉書店

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