喪服に回忌

 友人の通夜に参列した、近くのランドマークタワーの灯りも心成しか侘しく映る静かな初冬の夜だった。 ... 喪服、 明治時代になり服装が和服から洋装へと変化する中、遺族の着る喪服も白色から黒へと移り変わった。 本来、喪服とは死者を出した家が、死穢 (しえ) を他人に伝染させない様にと 忌み籠りを表す為の衣裳であり、昔から色は白だった。 それが明治時代以降 徐々に変わり始め、遺族の着る喪服は 1945年の敗戦を機に一気に白色から黒色に変った。 ... 所が、遺族でもない会葬者までが同じ黒色の服を着る様になったので、斎場の色も何時の間にか黒一色に変った。 会葬者の黒服の始まりは、伊藤博文の国葬の時に全員が黒の燕尾服で参列したのがキッカケだった。 ... 時を経て昭和の後半、当時の人達は この黒い服に白色のネクタイを付ければ目出度い席にも通用する様にと変えて呉れた。 ... 世相とは云えその間 僅かに 100年、人の世の移り変わりの速さには驚かされる。

 義理で参列する会葬者にとって、お坊さんの読経・説教は何時も退屈なもの。 ... 1100年前に書かれた枕草子でも 清少納言は、「 説教の講師は、顔よき。 講師の顔をつと まもらへたるこそ、その説くことの たふとさもおぼゆれ。 ... ⇒ 説教をして下さるお坊さんは、やっぱり顔が良くなくちゃ。 美男のお坊さんの顔をじっと見つめていてこそ、説教の有難味も分かると云うものよ 」 と、現代人が内心 思っていても言えないコトを、ズバッと云ってくれている。 ... そんなお坊さんを 昔は男性を比丘 (びく) と呼び、女性を比丘尼 (びくに) と呼んだ。 あまり知られていないが、この比丘・比丘尼が 4人以上の集団になると 「 僧 」 と呼ぶ様になる訳だ。 だから、一人だけのお坊さんを僧とは呼ばないのです。

 さて回忌、広辞苑に依れば 「 年回忌の略、人の死後 年毎に巡ってくる当月当日の忌日で、その満1年目を 2回忌、満2年目を 3回忌、以後 7、13、... 33、50、100 回忌が有り供養を行う 」 とある。 私の今までの体験で一番長い回忌は、父方の祖父の 50 回忌だった。 ... 普通一般に回忌は、3 回忌に始まり、7、13、... 多くて33 で終了するが、幸い 50 回忌 まで供養出来た理由は 親の短命と子供達の長命にあった。 ... 回忌の数え方の不思議は、2年目が何故 3 回忌なのか? 不可解だったが、 ... これは死亡当日を 1年目と計算し、満 1年目を 2 回忌、 2年目を 3 回忌と計算すると聞いて何とか納得できた。 この計算法は古代の中国に倣った計算法である。 但し、7回忌以降の習慣は、古代中国にも無く わが国でも平安時代以前には無かった。 7 回以降の回忌は後から誰かが付け足した日本独自の風習である。 例えば、33 の回忌は 神道の影響で後から追加された回忌と云う。 ... 純文学の笙野頼子の著書 (1994年の三島由紀夫賞受賞) に 「二百回忌」 がある、だが 200 回忌とは これはまた全く別の異世界での話である。

 父方の祖父は短命だったので、会ったコトも無ければ顔を見たコトも無い。 家には弓を構えた古い写真が 1枚だけ残るが、昔の白黒写真なので顔形もよく判別できない。 その祖父は千葉県の東金城近くの東金の税務署の署長をしていて、大正12年に 47才で早逝 した。 ... この祖父の 50回忌が没後 49年目の昭和 47年に行われ、私にも参列の機会があった。 会には50年前に部下だった 2名の方や、祖父の甥にあたる 同志社大学の先生にも会えて、通常なら顔を見るコトも話す機会もなかった筈の人達と色々語り合えたコトは収穫だった。 今にして思えばもっと色々な話を聞いて置くべきだったと思う、... 残念なコトをした。 ... この 50回忌は、祖父が早逝し その子供達が長生きしていたから出来た訳で、親子が共に長生きする現代では最早有り得ないコトである。


 参考書 :
新谷尚紀  聖と死の話   朝日新聞
山口仲美  枕草子      NHK出版

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