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zoom RSS 幕府の赤字財政

<<   作成日時 : 2018/05/25 20:08   >>

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 江戸時代、特に後半の財政、経済、生活はどの様な状況だったのか、それはどの様に推移したのか? ... 国家社会の基礎を農業に置き重農主義を標榜した江戸時代に於いては経済の基盤は農業と農業生産物に置かれた。 徳川が関ヶ原の戦いに勝利したのが 1600年 (慶長5年)、その3年後に家康は全国制覇をして将軍位に就き江戸に幕府を開き、以後 260年の長きに亘って太平の世を築いた。その後は 国内では生産力の拡大に伴い人口は増え、参勤交代で江戸に常駐する武士層も含めて都市の人口は増加した。

 調査制度の無かった江戸時代の人口に就いては諸説あるが、一説では江戸時代初期の @ 1600年前後の人口は 1250万人、中期の A 1700年代では2830万人、幕末に近い B 1860年頃の人口は 3310万人と推定されている。 これに対する農業生産量、実際のコメの生産量に就いては後述するが、国民一人当たりのコメの生産量が 1石になったのは幕末だった。 だが実際にはこのコメは籾殻付きのコメなので、籾殻 ⇒ 玄米 ⇒ 白米にすると歩留まりは 70%になる。 つまり 10sの籾米を玄米にすると 20%減って8sになり、更に食べやすい白米にすると 10%減って7s になる、この現実は計算から外してはならない...。

例えば、1万石の大名のコメの取分は五公五民ならば5千石で、残りの5千石は農民の取分になる。 藩は5千石のコメを通貨に変えて家臣への給料を払い、大名の俸給、城や家屋敷の維持費、諸経費を賄っていた。 しかも大名家は いざ有事の際には幕府に対して 1人 50石の割合で兵を出す義務があるので、常に 200人の兵 (武士と用人) を用意して置かねばならなかった。 従って、10万石の大名はこの10倍の収入と出費が有っただけのコト。 だが時代劇の 「水戸黄門」や「 桃太郎侍」 などを観ると、藩が商人から金を借りたり 悪役の家老や旗本、代官が百姓や商人から金を搾り取ったり、盗賊が横行したりするが、最後には懲らしめられて終わる、要するにこの時代は誰もが貧しかったのである。

 当時のコメの生産量はどの位だったのか?  太閤検地など昔から農産物の獲れ高を検証する制度は有ったが、全国単位で確度が高くなるのは江戸時代の中期以降からと思われる。 それでも大名の石高には表高とか内高とか曖昧な部分もあった。 その石高、それはコメの生産性を「石 ⇒ こく」 と云う単位で表した数値のコト。 即ち、田畑・屋敷の全ての土地面積に 「石盛」という独特の係数を掛けて算出する数値でコメの生産力を決めていた。 領地を単に面積で表さないのは田畑毎に優劣が有るからで、水産物や他の農産物もコメの生産力に換算して石高を計算していた。 ... この様にして決められた全国のコメの石高総量は、1600年前後で 2220万石、  1700年代で2600万石、幕末の1850年で漸く 3200万石になっていた。

 1850年代のコメの総石高 3200万石の内訳は、大要 次の様であった。 全国の大名の石高計は 2350万石、だが幕府の天領からの石高は僅かに 420万石、旗本・公家は 350万石、寺社が30万石、高家が20万石、禁裏(皇室)が4万石...。 この様に幕府天領の石高が少なかった点が後々の幕府の財政を大きく圧迫するコトになった。 この点、家康は外様大名に遠慮し過ぎたと云っても過言ではない。 ... 江戸時代を通じてコメの収穫量は漸増したものの、特に後期以降はインフレが進行した為に各藩の財政は赤字化し、これを各藩は借入金で凌いでいた。 幕府に於いても例外ではなく、例えば元禄期の 1700年頃の或る年度の財政収支は、収入は420万石のコメと長崎貿易からの収益等で 117万両、対する支出は幕臣への俸禄や扶持米等の人件費 47万両、作事・納戸等が 42万両、これに諸経費、二条・大坂城他の出費 15万両等々で計 128万両で 11万両の赤字であった。 特に宝永の富士山噴火や元禄地震、京都での御所焼失、天明の凶作等の天災は財政を大きく圧迫したが、財政赤字の主な原因は江戸中期以降の金山・銀山での鉱脈の枯渇にあった。

 この時代に赤字財政脱却に名案など有る筈もなく、幕府が採れる対策は通貨の改鋳しかなかった。 最初の改鋳は元禄時代で、この時は慶長小判の金の含有量 86%を 56%に切り下げ、銀の 80%を 64%に切り下げた。 以後、幕末に掛けて数度の通貨の切り下げが行われたが、改鋳の当座は 50万両程度の財政収入が計上されて一旦は赤字が解消されたが、逆にインフレが進行して景気は後退、幕府の屋台骨は次第に揺らいでいった。 こんな状況を良く知っていた幕臣たちはペリーの来航を機に開国を提唱して、貿易立国を目指そうとしたが現実は尊王攘夷派に潰されて幕府財政の復権はならなかった。

 参考書 :
藤田寛   勘定奉行の江戸時代   筑摩書房

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