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zoom RSS 中世の山城

<<   作成日時 : 2018/06/14 01:04   >>

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 中世とはヨーロッパ史の歴史区分であり、時期は ローマ帝国の滅亡〜宗教改革までの暗黒の封建時代を指す。 一方、日本史では鎌倉幕府の開設〜秀吉による全国制覇 (12〜16世紀) までを中世と呼ぶ。 その日本では中世以降 全国で 3〜4万とも云われる数の城が築かれている、しかもその多くは急峻な山上に造られた山城だった。 勿論、山城は古代から造られていて、九州では神籠石と云う名の山城が数か所に点在している。 だが中世に入ると集落に近い近隣の山々にまで小規模の山城が多数築かれた。 ...「城」 と云う字は 「土と成る」 の文字の合成語、周辺に土を盛って外敵の侵入を防ごうという意味であって、当初は建造物としての城の意味はなかった。 城が防禦拠点であるコトは、大陸の城が土製の レンガを積んで城壁を築き上げ 都市を大きく囲み、しかも域内に住む人々を保護していたコトからも明らかである。

 戦に際して保護を求めて来た領民を外敵から守ったのは山城の領主だけではない。 例えば、地域の領主でもあった鎌倉の鶴岡八幡宮は外敵の襲来に際して財やコメを持参して保護を求めて来た領民を受け入れた。 その結果、鎌倉に攻め込んできた北条早雲の軍は八幡宮側と交渉の結果、一定の額を税として徴収する代わりに百姓たちの生命を全て保証した。 同様の事例は、熱田神宮と信長の軍、播磨の法隆寺荘園と赤松勢との間にもあった。 理由は、例え戦に勝利しても土地の百姓を皆殺しにすれば農業は亡び農産物の収穫は皆無になるからである。 失敗例は島原の乱だった。 ここでは敵対した武士は勿論、百姓衆まで皆殺しにした為に以後 長きに亘り田畑は荒れ収穫ゼロの状態が続いた。 後年、四国や近隣の諸藩から百姓を移住させて再検地を行い農業が回復させたが、その間 数十年の歳月を要した。

 領主は敵方には米穀等の食料は一切渡さず、然も領民は出来る限り保護しようとした。 特に戦の多かった鎌倉時代後期から南北朝時代に掛けては、戦の兆しが有れば領主は領内の山城に食料と領民を隠して戦に供えた。 当然ながら侵略の側も大量の食糧を求めて襲って来る訳だが、そこに食料が無ければ急ぎその先へと移動して行く、だが当地で大量の食糧を確保出来れば 軍はここに留まり基地化してしまう。 その為にも領主は難攻不落の山城を維持しながら敵をやり過ごすコトに腐心した。 山城の規模は郡単位であったり、村単位、或いは部落単位のコトもあった。 また山城の築城に際しては、当時の土木作業の道具は農機具程度のものしかなく低効率だった、にも拘らず城造りは土盛りと切り崩し作業を絶え間なく行っていた。 初期の山城では建造物はコメなどを保管する為の建屋のみで山城の規模は小さかった。 ...築城に際して石を切って石垣を積んだり石畳を敷くようになるのは200年も後の戦国時代以降の事である。

 鎌倉時代の戦争は騎馬戦が主力だったが、南北朝時代に入ると騎馬軍団からの襲撃を防ぐために盛んに山城が造られ、戦は歩兵戦へと変化してゆく。 中世も後半に入ると領主は山上に戦時用の城を築き、自らは麓に屋敷を構えて住んでいた。 ... 戦国時代に五大山岳城と囃されていたのは順に、@ 鳥取県の月山冨田城 (尼子氏)、A 石川県の七尾城(畠山氏)、B 滋賀県の観音寺城 (六角氏)、C 新潟県、春日山城 (上杉氏)、D 東京の八王子城 (北条氏輝)だったが、もう一つの 三大山城 には、@ 岐阜県 の岩村城、A 奈良県の高取城、B には岡山県の備中松山城が挙げられていた。 以上8 件の城は現在は全て国の史跡に指定されている。 この中で 私が登った山城は、七尾城と備中松山城で、発掘のお手伝いをしたのは八王子城である。 機会が有れば他の山城にもぜひ登ってみたい。 出来れば美濃の岐阜城などはケーブルを利用せずに足で登ってみるのも面白そう。

 お城ブームに沸く近世の城、信長・秀吉・家康らの時代に築かれた城の形式は山城ではなく、平山城型〜平城型、しかも主な素材は石材、 「石の城」 だった。 ...対して土木・建築技術の低かった時代の中世の城は謂わば 「土の城」である。 ... 中世の山城の攻防で有名な戦いは南北朝時代、大坂河内の千早城が有名だが、戦況を書き記した太平記は勝者が書いた本なので真実は不明。 ただ現地は今は樹木に覆われているが当時の山は裸の山だったので、上から投棄する岩石や木材は大いに有効だったと思う。 だが、山上の陣地には水や食料は乏しく難儀だった筈。 ... 隣の奈良県の山城の代表格は高取城と書いたが、実はこの城は近世以降にj何回も改修されているので純粋に中世の城ではない。 そうであれば奈良県の中世の城の代表格は天理市東方の広域山城、龍王山南北城 (1507年築/ 580mh ) と思う。 昭和時代に林道工事で一部が失われたが、1578年に信長により破却された城ではあるが、規模は高取城に次ぐ奈良県の中世の名城 であるコトは疑いない。 一度は行ってみたい山城ではある。



 
 

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