死者への追悼

  現在進行中のコロナ禍で死亡した日本人は 2020年4月30日の新聞発表では 448人、一方 国内で前年,前々年の2019年と2018年に亡くなった人の数はそれぞれ1年間に 135万人程。 ...死者数を表す統計の数値など無味で味気ないものだが、亡くなった個々の人にしてみれば それぞれに心ならずも事情有っての死だったと思う。 死は或る時 突然に、しかも高齢者にも、乳幼児にも、働き盛りの人にも、そして富者にも貧人にも無差別に容赦なく襲いかかってくる。 受け身の人間にとって死とは知るほどに残酷で不平等なもの、それは国家も法も知性も人権をも超越した、理不尽ではあるが時間にも関係なく 或る時 突然に襲ってくる御し難いものである。


 死とは何かと問えば、即 命が無くなるコト。 では何をもって死とするのかと云えば、答えはその時の文化や時代、地域等によって若干異なる。 だが、一般的には人生の終わりが死であるコトに変わりはない。 今ここに宗教を持ち込むと複雑になるので今回は省く。 更に死とは生物学的に見てみても やはり命が無くなるコト、しかも余談だが生物体は死後は次第に崩壊して消えゆく運命にある。 即ち死の瞬間から生物体は自分自身で分解し始める、腐蝕し始めるのである。... 死の種類は多岐にわたる、体系に依らずに単純に列挙すれば 先ず身近に自然死有りであるが、外因のある死には 戦死とか病死、事故死、中毒死、ショック死などがある。 最近よく聞く死には、尊厳死、孤独死、過労死、腹上死などあるが、昔は行き倒れの野垂れ死、情死、自決など結構多かった。 云えるコトは、人それぞれが自分はこの様な死に方をしたいなと事前に準備していても実際にはどの様に逝くかは分からない。 いや殆どの人が自分の思い通りではない死に方で死出の旅に赴いている筈だ。


  花はちりても春さきて鳥は古巣に帰れとも  ゆきてかえらぬ死出の旅    日本蓬莱山より


 万葉集には「挽歌」即ち亡くなった人を追悼する歌が全部で 263首 載っている。 この数が何と歌集全体の 6%にも相当しているコトヲ考えれば、挽歌が万葉集の在り方に大きく影響してきたコトは否めない。 挽歌は、中国では BC200年頃に唄われていた葬送歌が、今尚健在と聞く。 わが国で云う挽歌は、本来は死者の野辺送りに際し車を引くときに唄う歌のコト。 古くは言語を持たなかった縄文人は死者の面影を埴輪に託して追悼していた。... 宗教学者の山折哲雄さんは古来、和歌や俳句にとって欠かせない主張は、死や死者に対する悲傷の調べであり想像力であって人間の死を勘定に入れない歌なぞ そもそも歌の名に値しなかったと云う。 詰まりは和歌や俳句の世界では、発句に際して挽歌や忌日の世界を視野に入れなければ 何れは衰退に向かうコトは確実だと...。文化芸術の世界に於いても死や死者への追悼心が無ければ人々に見放されて衰退してしまうと云うコト。


 俳句に於いては、歳時記の季語は「時候、天文、地理、生活、著名人の忌日、行事、動植物」に分類されている。だが、 この中で忌日だけは異質だ。 前記の山折さんは人の死を視野に入れない歌など長い間には衰退してしまうと主張しているが、実際には一般の人は 日にちが経てば 故人の忌日、亡き人の逝った日、季節等を細かく記憶しているコトは難しい。 私も芭蕉忌や子規忌など知ってはいるが、故人が何時の日に、何時の季節に亡くなったのか迄は記憶してない。 これらは発句に際して各人が調べれば良い事と思う。 また忌日に関しては、最近は人物だけではなく出来事に関わる季語も増えて来た。 75年前の原爆忌の様に広島と長崎のいずれか一方が夏の季語に属し、他が秋の季語に入るのも理由は分かるが今もって釈然としない。 最近では震災忌など、既に多くの人が詠んでいるが、厳密に云えばこれは 東北沖地震に使うのか、阪神淡路大地震、新潟大地震の場合はどうするのか等対象が広すぎて、その都度 詠み分けるコトは難しい。 だが、例えそうであっても、まだ歳時記には載っていなくても 大災害は身近に実際に有ったコト、その災害の時に実際に逝った多くの人々を追悼するのであれば、伝統や約束事には捉われずに自ら工夫を凝らして 新しい句を詠んで見ては如何かと思う。


 参考書  :

山折哲雄 「近代の観念でのりこえられない」  朝日新聞 Reライフ 2020.4.