東周りのキリスト教「景教」

  以前、と云ってもかなり前で未だ華国鋒さんが中国の主席だったころ、清話会の西安視察団の一員として北京~西安~上海を訪問したコトがあった。 西安での一日、休日の自由時間に一人カメラを肩に市内に有る碑林博物館を見学した。 ここは中国各地に埋もれていた古碑が集められている所謂、歴史博物館でその役割は今も当時も変わらない。 博物館の内部はまさに古い石碑の林立する壮大な空間で、漢語や外国語で書かれた大小の石碑が所狭しとばかりに林立していたのを覚えている。 ...最近、ふと読んだ川口和彦さんの著書「景教のたどった道(東周りのキリスト教)」に754年に建立された古い景教の古碑についての話が載っていて、しかもこの石碑が西安の碑林博物館に展示されていると書かれていた。 早速調べたところ、この古碑は唐の時代に景教寺院の敷地に建てられ、後に棄却されていたものが明の時代に発見され掘り出されて現在は西安の陝西省博物館(碑林)に展示されているとあった。 当時の私には「景教碑」に関する知識など全くなく、気づかずに大変惜しいことをしたと思っている。 因みに、この古碑に書かれている文字は漢語とシリア語で文字数は 1900、相当に大型の石碑だったと思う。

 現在のイスラエル及びレバノン、シリア、ヨルダン等 諸国から成る当該地域は、地政学的にはアジア大陸、ヨーロッパ大陸、アフリカ大陸の三大陸の接点、即ち主要街道の交差する好位置にあり、しかも言い伝えでは乳と蜜が流れるほどの豊かな土地とされてきた。 この地はカナン即ち現在の エルサレムであるが、この地に興ったキリスト教は、後に教義をめぐり内部対立が起きて互いに異端者呼びをしながら 431年に東西に分裂。 その中の一派は西方のギリシャ、ローマを経てヨーロッパからアメリカ大陸へと拡散、他方 東方へ移動した一派はシリアから東方へ向かい西アジア(ペルシャ⇒ イラン)、中央アジアを経て635年にはアジア大陸東端の唐の長安へ到着している。その間、敦煌ではシリア語の新約聖書が書かれている。... 東方へ向かったこの一派こそが所謂、ネストリウス派であり、彼らが東周りにキリスト教(景教)を唐に伝えたのである。 以後、漢語で景教となった当地のキリスト教は 150年間 唐王朝の庇護のもとで隆盛を極めたものの、第18代の武宗の時代に道教が優遇されるコトになり、他の外来の宗教の仏教、景教等は悉く追放されて僧は還俗させられて絶えてしまった。景教もこの時代に迫害されて長安市内にあった大秦寺は破壊され、この時「景教の石碑」は土深くに埋没されてしまった。 日本から定期的に派遣されていた遣唐使もこの事件を機に廃止されている。

 唐の時代に漢語に翻訳されていた聖書には、ギリシャ語読みの「キリスト」という用語はなく、すべてがシリア語読みの「メシア」だったとある。 従って「景教」はイエス メシアの教えであり、それが唐で景教となったのは745年。 続くその後の200年間は長安(西安)や北京などで、この東周りのキリスト教(メシア教)は景教として公に布教が認められてきた。 しかし200年後の唐の末期、18代武宗の時代に突然 外来の宗教は全て排斥するコトとなり、迫害が始まったので仕方なく景教は隣国の蒙古に逃れて布教活動を続けていた。しかし 14世紀後半に元が滅びると景教も共に滅びて消えてしまった。...この東回りキリスト教の消滅の原因はいろいろ言われているが、最大の原因は宗主国のペルシャをはじめ周辺国の全てがイスラム化してしまい支援が無くなったこと、更に唐国内でも有力な支援者が居なくなったこと、他の宗教に影響化されて世俗化してしまったコトと云われている。 ... 因みに安土桃山時代にわが国に入ってきたキリスト教や明治時代以降に日本に入ってきたキリスト教は すべて西周りキリスト教の流れである。 では唐時代に栄えた東周りキリスト教の景教の日本への影響は如何だったのだろうか? もちろん聖書等、文字の類は一切残されてなく記録は残っていないが、思想的には 幾ばくかの影響を受けていた可能性は否定できない。

 景教思想の日本への影響について、何時も引き合いに出されるのは奈良時代から平安時代にかけて主に近畿地方で活躍した秦一族である。 この一族は京都市内に複数の神社仏閣を建立しており、他にも治水や都市計画で大きな功績を残している。 但しこの説には異論もある。 ...また神社の由来にも何らかの鍵が隠されている様な説もあるが歴史的な証拠はない。 また群馬県にある上毛古碑の三碑のうちの多胡碑、この碑文に記されている羊文字の存在、更に空海に関係する高野山に今も残る景教碑等々有るもののそれ以上の解明はない。だが探せばまだまだ何か出てきそうな気もする。... 630年から凡そ200年の間、日本は空海や最澄をはじめ多くの優秀な人材を遣唐使として唐に派遣していた。 しかも当時の長安には地元の道教をはじめ、外来の仏教、景教、マニ教、ゾロアスター教など西方から来た幾つもの宗教、思想、教義などが溢れていた。 若い遣唐使たちがそんな新しい思想等に影響を受けなかった筈はない。...まだまだ探せば何かが出てきそうな気がするが如何なものだろうか....?
  

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