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zoom RSS 闘茶が愉しい

<<   作成日時 : 2016/04/30 10:40   >>

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  五月の一日は八十八夜、言い伝えでは この日に摘んだ新茶は不老長寿の薬という。 ... 茶の原産地は、中国雲南省と貴州省の境の西双版那 (しーさんばんな) とされるが、どういう訳か この地は日本の社会科地図には載ってない。 ... 茶を煎じて飲む風習が我が国に伝わったのは 12世紀の鎌倉時代。 宋に留学していた栄西が茶の種を江南の浙江省から持ち帰ったのが嚆矢とされる。 当初は禅院の儀礼用に使われていた飲茶だが、南北朝時代の 14世紀には武士たちの間にも飲茶の風習が広がり 次第に絢爛な唐物数奇やバサラ趣向の乱遊喫茶へ、果ては賭博がらみの 「闘茶」 喫茶へと変質していく。 そんな風潮に待ったを掛けたのが、次の時代を切り開いた珠光であり紹鴎・千利休であった。 彼らは、それまでの絢爛指向の 「数奇茶」 を排して茶の湯のシンプル化を図り、新しい静謐の 「侘び茶」 の世界を創出した。

 この「静謐」 の最初の仕掛人は 6代将軍の足利義教であり、8代将軍 足利義政であった。 その一方で義政と同時代に庶民の側から静謐の茶道を提唱したのが先述の 村田珠光である。 一休から禅を学んだ奈良出身の珠光は、簡素と静謐な境地の精神を重視して 「侘び茶」 を創始し、後世 「茶祖」 と呼ばれるコトに。 彼は茶道具には質素な信楽や備前を使い、標準の茶室を四畳半とし、不完全な美を賛した。 この趣向を更に推し進めたのが武野紹鴎である。 三条真隆に歌を学んだ紹鴎は、国内で産する竹や木の素材を好み、信楽を使って茶の湯の和様化を図った。 彼は大阪の堺出身で 16世紀の初期に活躍した茶人である。

 この武野紹鴎に師事したのが後の千利休の宗易である。 この頃の彼の名は未だ宗易で、千利休の名はこれより後の 1585年 (天正13年)、秀吉主宰の禁中での茶会に加わるために付けた居士号である。 1522年に生まれた彼の名は田中与四郎、19才で宗易と改め茶の修行に入り、63才から千利休を名乗る。 ... 堺を手に入れた信長は自ら茶の湯にのめり込み、特に唐物の 「名器」 狩りに執心しながら、頻繁に茶会を開いた。 だが、その目的は堺の豪商との結託に有った。 茶の湯と政治が絡んだのは この時が初めてである。 結果的に信長と結びついた堺衆は、豪商で茶人の今井宗久であり、津田宗及、三番手が後の千利休の宗易であった。

 信長が倒れ、秀吉が備中からオウム返しに戻って来て、最初に山陽道の山崎で合戦が起きる。 この時、堺の三人衆はこぞって秀吉の山崎の陣に馳せ参じて茶をたてている。 光秀側に行かなかったのは既に勝敗の行方を察知してのコトだったのだろう、流石は堺の商人である。 それ以降、この三人衆は秀吉に従うことになる訳だが、筆頭の茶頭には宗易 (後の千利休) が就いた、宗易 61才にしての晴れ姿であった。 茶頭としての彼は、続く九州征伐 (対島津討伐)や、小田原征伐 (対北条討伐) にも鎧兜を付けて参戦し陣中に茶室を設けている。 日本統一を果たした秀吉は この後、京都で正親町天皇を招いての 「禁中茶会」 を、一般人 1600人を招いての北野天満宮での 「北野大茶会」 を催したが、これらは何れも政治色の濃い大型絢爛の茶の湯であった。 宗易こと千利休は、秀吉の金ピカで豪華絢爛の茶の湯に対して、僅か 二畳の座敷にて催す静謐な侘び茶道を主張した。 終生、この点が両者の決定的な相違点であり、二人の間の破局は既にこの時点で始まっていたと云えよう。

 最近は 「闘茶」 が愉しい。 闘茶とは、喫茶で茶の味や産地を当てる遊びである。 ... 群馬県の中之条町には国の重要無形民俗文化財 (1990年指定) 、上州白久保の 「闘茶の御茶講」 がある。 室町時代の闘茶の形式が残る当地の御茶講のメニューは、先ず渋茶・甘茶・チンピ (干したみかんの皮の粉末) を使って四種類の混合茶を作り、最後に飲み当てる方式である。 ... 中之条町は群馬県の榛名山北方に位置する JR吾妻線沿線の町で、沼田市 ⇒ 草津町 ⇒ 長野県の上田市を結ぶ街道沿いにあり、戦国時代から真田一族の沼田城ー岩櫃城ー上田城を結ぶ線上に在った古い町である。 ... 全国各地で闘茶が盛んになるのは、茶の生産量が増え、茶の銘柄が増えてからのコト。 往時の記録には、光厳天皇が廷臣と飲茶勝負を行ったとか、バサラ大名の佐々木道誉が莫大な景品を賭けて百服茶を開いた等々、数多ある。 この様な風潮に対して、夢窓疎石や兼好法師らが行き過ぎを批判し、足利尊氏は 「建武式目」 の中で闘茶を禁止したが効き目はなかった。 ... ところが最近は又、各地の町興しやお茶の販売促進策の一環として闘茶が復活し、子供も大人も闘茶でゲームを楽しめる様になった。 この現象は或る意味、茶の湯の静から動への回帰の様で面白い。 それにしても闘茶が賭博からゲームへ切り替わったとは... 。 因みに、現代の中之条町の闘茶会の景品は「飴玉」 少々也と聞く。

 参考書 :
利休と秀吉  (財)JR東海生涯学習財団  平成17年8月

 

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