江戸幕府の老中職

 老中(ろうじゅう)と云えば、時代劇で観る あのお奉行様をも差し置いて上座に座る幕府の重要な職。 ...家康が征夷大将軍に就き江戸幕府を開いたのは 1603年。 大坂夏の陣が終わり、江戸幕府の骨格が整い始めたのは 1615年(元和元年)以降のコトだった。 新しい江戸幕府の下、将軍の側にいて常にその手足となって軍事や政治を担ったのは、当初は本田氏など「年寄衆」と呼ばれる譜代の人達だった。 その後3代の家光の時代になると年寄衆は次第に「老中」と呼ばれるようになる。... 幕府が始まった当初は行政システムも簡単なものだったが、戦さは無くなり平和な時代が続くようになると次第に新しい行政機構や管理システムの構築が必要になってきた。 特に幕末には内外の政情は不安定となり、外国との交渉や沿岸防備など新しい仕事も増えてくる。 これらの業務を処理遂行するための機構のトップが老中であり、幕府の行政官僚のトップでもあった。


 老中のやるべき仕事は将軍に直属して全ての幕政を管轄するコト。1634年(寛永11年)、幕府は老中のやるべき業務内容 10ヶ条を決めている。 中身を簡略して記すと次の様になる、1 禁中 公卿 門跡衆之事、2 国持衆大名以上 御用並びに御訴訟之事、3 同奉書判形之事、4 御蔵入代官方之御用之事、5 金銀納方並大分御遣方之事、6 大造之御普請御作事堂塔御建立之事、7 知行割之事、8 寺社之事、9異国方之事、10 諸国絵図之事。...その後1662年に新しく「若年寄」という職制が置かれたのに伴い、旗本、御家人の支配、江戸城の管理、徳川家の家政等の業務は老中から若年寄に移管され、老中は主に大名支配等の国政を担当する様になる。 老中の仕事は、実務は「奥祐筆」が行うので数年ごとに老中が入れ替わっても仕事自体に支障はなかった。 老中に定員は無かったが中期の頃までは4~5名が選任されて輪番で業務を遂行していたが、幕末の頃からは業務が複雑化、多量化したので輪番の月番制は廃止されて業務は国内、国外、会計、陸軍、海軍に分化されて担当は専任性に変わった。


 江戸時代を通じて老中職の選任は、原則 「家格」の枠の中で決められていた。 具体的には、先ず本人が譜代の大名家の当主であることであり、石高は2万5千石~10万石。だが九州に住む大名は長崎港の警備義務が付されていたので実質除外されていた。 この為、条件を満たすために事前に石高を加増したり、九州から他国へ国替えを行った例もある。また、その前には経歴として寺社奉行、大坂城代、京都所司代を務めて置かなければならなかった。ただし、例外としては将軍の側用人から老中に就任した例もあった。... 寺社奉行の仕事は、寺社並びに神官僧侶の支配(指揮、監督、知行割、下達など)、寺社領内の領民の支配、更に連歌師、楽人、陰陽師、易、碁将棋の者の支配であり、大坂城代の仕事は城の守護、西国大名の監察、京都所司代の仕事は、朝廷と西国大名の監察であった。また、寺社奉行に就く前の奏者番の仕事は殿中での儀礼執行の役であった。老中に選任される為には、これらの諸業務を歴任して知識、経験を習得して置かなければならなかった。


 江戸幕府の組織のトップは征夷大将軍である将軍であり、その下には軍事・行政を司る 4~5名の老中職が置かれていた。更に老中の下部組織には全国規模の組織が敷かれていた。... 例えばTVや映画の時代劇にもよく出てくる...、北町奉行、南町奉行、それに勘定奉行など多くの奉行職、大目付や大番頭、それに各地の郡代、代官等々数え上げればキリがない。...あまり知られていないが、江戸幕府のコメの石高は約 700万石、このうち 300万石は旗本・御家人向けなので、幕府の取り分は残りの 400万石。このほかの収入は長崎貿易の益金、直営の金銀鉱山からの益金等だった。天領での年貢の割合は4公6民だったので幕府の実収はそう多くはなかった事が分かる。 ...また、時代によっては将軍と老中の間に「大老」職が置かれたり、新井白石や田沼意次の様な権勢を奮った側用人がいた。また、将軍の親戚筋の田安家や一ツ橋家等の存在も老中の仕事の上に大きく影響してきたことも 有ったであろう。江戸幕府が続いた 260年間、この様な状況下で運営されていたのである。


 参考:


大石慎三郎  江戸幕府の行政機構   大学のテキストより